ほんとにおもしろいことは竹筒の中に
世界で一番美しい病気
中島らもは、エッセィの連載を数多くこなしていたこともあって、同じエピソードが何度も出てくることが多い。複数の単行本に限らず、同じ単行本の中にも。 でも、あまりに“この文章、最近読んだって!”と思う箇所が多く、最後の初出一覧を見たら、いずれも既に単行本化されたものの中からピックアップしたもので、私が不審に思ったものはやはり最近読んだ『獏の食べ残し』からのエッセィだった。 獏の食べのこし 作者としてはオイシイ仕事なのか?(笑)ただ、図書館では閉架書庫になっている単行本からのものも多く(もちろん、図書館員に頼めば持ってきてくれる)、数あるエッセィや自伝的文章の中から、恋愛にまつわるものを選りすぐって収録しているから、それとしての価値もある(何様?)。 そう、中島らも曰く、『世界で一番美しい病気』とは恋のことらしい。 彼は、学生結婚しているが、結婚後もほかの女性に本気で恋をしているし、それをここに書いている。そういう点で、女性に対しては真摯でないと私は思う。でも、恋愛や人間関係においては非常に真摯な人であることが窺える。 以下、文章の抜粋アリ…書き終わって:抜粋ばっかりになってる; 〜引用〜〜〜〜〜〜〜〜〜 中学生なら話は別だが、恋愛を「したい」という人の頭はどうかしているんじゃないか、と僕は思っている。どうかしているか、なにか別のものを恋愛と勘違いしているかのどちらかだろう。 〜おわり〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜出会うということが別れることの始まりであるのは小学生にでもわかることだ。 (略) 恋におちることは、つまりいつかくる何年の何月かの何日に、自分が世界の半分を引きちぎられる苦痛にたたき込まれるという約束を与えられたことにほかならない。 (略) しかし、(略)「得恋」ではなくて「永遠の片想い」に身を置きたい。 決してかなうことがない想いを抱いて、恒久的に満たされることのない魂を約束されているのなら、それはそれでひとつの安定であり平穏である。失うことの予感に恐れおののくこともない。もともと失った状態が常の存在のありようであり、悲しみが不変の感情のベースになる。それは一種の「幸福」と呼んでさしつかえないかもしれない。 それが、「意に反して」得恋してしまったときに、人間は「死」に一番近づいている。 想いのかなった至上の瞬間を永遠に凍結させたいと願うからでもあり、愛の最期の形として「死に別れ」を望むからでもある。 長い引用になっちゃったよ。 私は、この文章に賛同するわけではない。この文章を書きながら中島らもは自分の表現に陶酔しているんじゃなかろうか、とさえ思う(イヤな奴)。しかし、想う相手がいるいないにかかわらず、恋という状態にあこがれる私は、恋の辛さを知らない幼さゆえなのだろうか。また、おそらく中島らもは上記のように書きつつ、恋愛を欲していると感じる。身を崩してもアルコールを飲んでいたように、引きちぎられる苦痛を伴いながら人を愛していたんじゃないか。 〜再び引用〜〜〜〜〜〜〜〜〜 恋愛を「関係」という見方でとらえてしまうと、そこには至高の瞬間から退屈な日常への地獄下りが待っているだけの話である。 〜おわり〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜(略) 極端に言えば、恋愛というのは一瞬のものでしかないのかもしれない。 唇と唇が触れあう至高の一瞬、そこですべてが完結してしまい、それ以外は日常という散文への地獄下りなのだ。 ただし、その一瞬は永遠を孕んでいる。 (略) しかし、言い訳ではないけれど、こういうことなのかもしれない。 もし誰をも愛していないとしたら、結局僕は「いない」のだ。 闇の中で、「想い」だけが僕の姿を照らしてくれているような気がする。それ以外のときは僕は一個の闇であり、一個の不在でしかない。 中島らもの言うことは心に残るようでいて、恋愛の指南書ではないから、検討すると矛盾が多い。ただ、この人は真剣に生きていたのだ、真剣に他人と向き合っていたのだ、真剣に人を愛していたのだ、と感じる。それを冷静に分析して文章にする聡明さも自覚していたんだろう(笑)。 このエッセィの解説を室井佑月が書いていて、それがまたおもしろい! PR |
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