ほんとにおもしろいことは竹筒の中に
私の中には、「母に言われたから過食をやめた」とか「母のために過食をやめた」という思いが強いのだろう。
働いていたとき私の収入の大部分が食費に使われていた事実、 無収入の今、貯金を崩したり、失業給付や母の財布から過食代を捻出している事実、 嘔吐でからだが疲弊してしまう事実、睡眠不足で無気力な日々、 過食をやめることによって、それらから解放される希望 それを私は感じていない。 私が過食をやめるのは母に怒られないため 過食をしている自分は嫌いだけれど、 過食をしない自分にどれほど輝かしい未来が待っているか、あまり思い浮かばない。 なぜだろう、なぜかしら。 過食をこんなに忌み嫌っているはずなのに、 過食をしない自分の姿を求めていない? おそらく、「自己評価の低さ」というのがキーワードになっているのではないだろうか。 自分で自分を褒めることが苦手。 過食をしなくなったとして、過食をしなくなった自分を褒めたところで、喜びを感じない。 私は誰かに褒めてもらうことによって、ようやく安心するのでは。 自分で自分を認められない。 自分の短所を励ますことも、自分の長所を伸ばすことも、自分の未来に期待することも。 誰か!誰か!私を愛して。 私じゃあ私を愛しきれない。 愛されて初めて、私は愛される人間だと思えるような気がすると。 それは悲しい思い込みかもしれない。 恋愛で必ずしも幸せになるとは限らないし、 特に私のような初心者は痛い目に遭う可能性が高いじゃろう。 先日、『猫の形をした幸福』(小手鞠るい)を読んだ。 猫を中心とした夫婦の物語なのだけれど、 もし・もし私が結婚するとしたら、こういうタイミングで愛に出逢えたらかなぁ~と思った。 PR |
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